2007年08月29日
序章
犬のように浅い眠りだった。
目の縁に涙のあとがこびりついていた。きしむ二段ベッドの上の方から梯子をつたい、床に素足を這わせると、木目をさらけ出した床の冷たさに、哲夫は一瞬身を震わせた。夏の日、暑ければ暑いほど、水風呂につかる時のあの一瞬の冷たさに似ていた。
タコ部屋には空調などなかった。求人雑誌の備考には、「全室冷暖房完備」とたしかに書かれていたが、それは川向いのホテルの従業員宿舎のことだけだった。ロッジの宿舎には小さな電気ストーブが一つあるだけで、それはすっかり白くなった手のひらを暖めるか、濡れた靴下をその金網に引っかけておくこと以外に、何の役に立ちそうにもなく、わずかに六畳一間の狭っ苦しい部屋だったが、部屋全体を暖めてくれることなど期待できなかった。
前日の朝、松本での冷え込みも尋常ではなかった。その上、初めて体験する上高地の寒さは、哲夫が九州で想像していた以上のものだった。わずか三日前、博多から名古屋へ深夜バスで出発した時、彼は半袖姿だった。松本に着いてから、バッグの中からトレーナーとジャンパーを取り出した。そして、標高千五百メートル、北アルプスの玄関口として知られる上高地へと登ってきた。その時彼が目にしたものは、林道の脇に残る白い雪の塊であり、それがゆうに腰のあたりまで積もっていたのだ。
九州ではすでに夏日を記録した、四月末のことである。
目の縁に涙のあとがこびりついていた。きしむ二段ベッドの上の方から梯子をつたい、床に素足を這わせると、木目をさらけ出した床の冷たさに、哲夫は一瞬身を震わせた。夏の日、暑ければ暑いほど、水風呂につかる時のあの一瞬の冷たさに似ていた。
タコ部屋には空調などなかった。求人雑誌の備考には、「全室冷暖房完備」とたしかに書かれていたが、それは川向いのホテルの従業員宿舎のことだけだった。ロッジの宿舎には小さな電気ストーブが一つあるだけで、それはすっかり白くなった手のひらを暖めるか、濡れた靴下をその金網に引っかけておくこと以外に、何の役に立ちそうにもなく、わずかに六畳一間の狭っ苦しい部屋だったが、部屋全体を暖めてくれることなど期待できなかった。
前日の朝、松本での冷え込みも尋常ではなかった。その上、初めて体験する上高地の寒さは、哲夫が九州で想像していた以上のものだった。わずか三日前、博多から名古屋へ深夜バスで出発した時、彼は半袖姿だった。松本に着いてから、バッグの中からトレーナーとジャンパーを取り出した。そして、標高千五百メートル、北アルプスの玄関口として知られる上高地へと登ってきた。その時彼が目にしたものは、林道の脇に残る白い雪の塊であり、それがゆうに腰のあたりまで積もっていたのだ。
九州ではすでに夏日を記録した、四月末のことである。
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2007年08月29日
松本(1)
長野県松本市にある旅館へは、上高地のそのホテルで働くアルバイトが、各地から集まることになっていた。早朝、深夜バスで名古屋駅へ到着した哲夫は、そのまますぐに特急列車で松本へと向かった。松本駅についたのは、まだ昼まえだった。松本駅からその旅館までの道すじは、意外にもあっけなく彼の知ることとなった。駅前大通りの脇に並ぶ電信柱に旅館の文字が貼られていて、矢印まで記してあった。
彼はその看板を頼りに、次から次へと足を進めていけばよいだけのことだった。九州から何も知らない土地へ単身働きにきて、旅館までのその道標は非常にありがたいものだった。しかし、旅館までの道に迷い一旦足を止めることができたなら、もう一度冷静に自分の歩むべき道を彼自身考える余裕ができたのかもしれない。そうすると、電信柱に貼られた道標は、すでに歩き出した彼に、何らためらう余裕を与えないばかりか、もう後戻りは決してさせないようにと、巧妙に仕組まれたものであるようにも思えた。
毎年、何人の若者が不安と期待との、どちらかといえば不安の方が次第に膨らんでいるゆらぐ足取りで、その旅館までの道を歩いたのだろうか。旅館までの道に迷い、もう一度自分のいた場所へと道を引き返したものがいるのだろうか、と哲夫は思った。
その日、旅館へ集まったのは、哲夫と橋本、他に男が二人と女が四人だった。
男女が別々の部屋に案内された。そこで初めて顔を合わせることになった男四は、ワンシーズンをともに過ごす同志といった感じで、何の違和感もなくすぐに打ちとけることができた。夕方早めに食事を済ませ、風呂から上がると、早速自販機で缶ビールを買い込み、売店でつまみを選んで、彼らは一杯やることにした。それぞれが名前と出身地をいった。哲夫が佐賀、橋本が大阪で、一人は富山、一人は愛知だった。
橋本だけが二十代後半で、あとの三人は二十歳そこそこだった。橋本は自分ひとりだけ五十リットル容量の登山リュックを用意していた。小柄だったが、がっちりした山男の体つきをしていた。彼は自分のステンレス製のコップに用意していたウイスキーを注ぎ、使い古した水筒に入れた水を足して飲んでいた。旅館のロビーで時間を潰す間も、ずっと飲んでいたので多少顔が崩れていた。
「おれ哲夫だからテツって呼んで」
と哲夫はいった。
「じゃあ・・・テツは今まで何してた?」
そう訊いたのは富山だった。
「何してた?」と訊かれても、一体何をしていたのだろう? と哲夫は思った。彼は福岡で二ヶ月以上、友人のアパートに転がり込んでいた。その前は・・・。
初めて見ず知らずの人に対して、次の言葉をぶつけることになった。
「おれさ、大学中退したんだ」
哲夫は福岡の大学を、二年で中退していた。
大学中退という言葉が、口の中に余韻を残していた。そう言い放っておいて、どういう反応があるのか、富山の表情の変化を少しでも見落とさぬように、しっかりと彼の顔を見据えていた。一体中退という言葉が、他人にどのような印象を与えるのか。どんな目でもって彼らから見つめられるのか。たしかに中退など、世間にはうじ虫のごとくいるかも知れない。取るに足らないことであるかも知れない。中退者に与えられる称号は、落伍者としてのそれか、はたまた何か才能を開花させた時に、自嘲的に呟く「中退者」という誇りか。
しかし哲夫は自らの体内に押さえのきかぬような、溢れ出さんばかりの才能と衝動をもって大学を飛び出したわけではなかった。大学は辞めたけれど、いつまでもフリーターと称して何をやるでもなく、ただ社会の枠組みの周辺を這いずり回っているうじ虫の部類だと思った。
音楽や演劇や小説を書いて成功する「中退者」になれるはずはなく、初夏になれば自然に湧いて出てくるうじ虫だと思った。それでも彼は、高卒でもないもちろん高校中退でもない、大学中退という非常にあいまいなぬかるみの上に、自らの生活を築き、またそこにアイデンティティーを見出すつもりだった。大学に行けるようなフツーの環境に育ちながら、あえてそこから逃げ出したのだ。高卒でまっとうに働いている田舎の同級生からすれば、それは鼻をつまんで毛嫌いされるような、うじ虫のアイデンティティーだった。
富山は浅黒くてほりの深い顔をしていた。彼はその濃淡のある顔を柔らかく崩して、微笑みを浮かべた。
「何かおかしいか?」
「いやね・・・」
「何だよ」
「・・・俺と一緒だなって」
ぴんと張られていた哲夫の視線が、するりとほどけていった。
富山は一年前に、東京のある私立大学を退学していた。
「それで辞めてからどうした?」
反対に哲夫が訊いた。
そこらあたりを這いずり回っているはずのうじ虫が、彼の周りでは彼だけだった。中退を実行した富山が、その後どういう生活を送ったのか、どのような経緯でここへやってきたのか。哲夫は自分のことのように関心をもって訊いた。しかし、富山がうじ虫であるかどうかの詮索は、次の言葉によって全く無意味なものとなった。
「オーストラリアに行っていたんだ」
富山はそういって哲夫の目の奥を覗き込んだ。哲夫はその時、彼の目の奥になにか照り輝くものを見つけた。
「へえ。オーストラリアか。凄いな」
哲夫は彼から目をそらして、平然としたそぶりでそういった。彼に探られまいと思った。彼と同じか、あるいは違ったものであるにしろ、自分の目の奥に照り輝く何かがあるのかどうか不安だった。中退の後、新たな出発点としてオーストラリアを選んだ富山と、海外へ出ることなど全く考えつかなかった自分とでは、自分の方が明らかにその発想において幼稚であり、劣っているように思えた。
オーストラリアには大陸的な乾いた、そして未知なるものへと挑戦していくような男らしい響きがあった。反面、上高地には華奢で甘美な、どこか逃避的な響きがあるように思えた。
富山は一ヶ月前に、日本へ帰ってきていた。
「ここのバイトが終わったらどうするの?」
と哲夫が訊いた。
「オーストラリアからの帰りに、東南アジアも旅してきたんだけど、シンガポールの大学へ留学しようと思っているんだ」
彼は留学するための学費や生活費を、そのバイトで貯めるつもりだった。すでに留学の手続きも進めていた。
また、大学での授業のほとんどが英語で行われるため、英語の勉強も続けていた。ただ、オーストラリアに行っていたおかげで、日常会話程度の英語は十分話すことができた。そしてオーストラリア訛りの英語を話してみせるのだった。
哲夫は焦りを覚えた。富山が同級生だったことが、さらに彼の焦りを大きくした。哲夫は具体的な目標など何ひとつ持たずに、ただ漠然と九州から離れることだけを考えていた。流されるというより、積極的に流れてやろうと辿りついたものの、目的地のない逃避行に、すでに不安を抱いていた。それでも九州にとどまって再出発を考えるよりも、誰も知らない、自分さえ知らない土地でできるだけの身ぐるみを引き剥がし、すっかり軽くなった体ひとつでやり直すことに賭けようと思った。
まだ間に合う、まだ間に合うんだと自分自身にいい聞かせて。
彼はその看板を頼りに、次から次へと足を進めていけばよいだけのことだった。九州から何も知らない土地へ単身働きにきて、旅館までのその道標は非常にありがたいものだった。しかし、旅館までの道に迷い一旦足を止めることができたなら、もう一度冷静に自分の歩むべき道を彼自身考える余裕ができたのかもしれない。そうすると、電信柱に貼られた道標は、すでに歩き出した彼に、何らためらう余裕を与えないばかりか、もう後戻りは決してさせないようにと、巧妙に仕組まれたものであるようにも思えた。
毎年、何人の若者が不安と期待との、どちらかといえば不安の方が次第に膨らんでいるゆらぐ足取りで、その旅館までの道を歩いたのだろうか。旅館までの道に迷い、もう一度自分のいた場所へと道を引き返したものがいるのだろうか、と哲夫は思った。
その日、旅館へ集まったのは、哲夫と橋本、他に男が二人と女が四人だった。
男女が別々の部屋に案内された。そこで初めて顔を合わせることになった男四は、ワンシーズンをともに過ごす同志といった感じで、何の違和感もなくすぐに打ちとけることができた。夕方早めに食事を済ませ、風呂から上がると、早速自販機で缶ビールを買い込み、売店でつまみを選んで、彼らは一杯やることにした。それぞれが名前と出身地をいった。哲夫が佐賀、橋本が大阪で、一人は富山、一人は愛知だった。
橋本だけが二十代後半で、あとの三人は二十歳そこそこだった。橋本は自分ひとりだけ五十リットル容量の登山リュックを用意していた。小柄だったが、がっちりした山男の体つきをしていた。彼は自分のステンレス製のコップに用意していたウイスキーを注ぎ、使い古した水筒に入れた水を足して飲んでいた。旅館のロビーで時間を潰す間も、ずっと飲んでいたので多少顔が崩れていた。
「おれ哲夫だからテツって呼んで」
と哲夫はいった。
「じゃあ・・・テツは今まで何してた?」
そう訊いたのは富山だった。
「何してた?」と訊かれても、一体何をしていたのだろう? と哲夫は思った。彼は福岡で二ヶ月以上、友人のアパートに転がり込んでいた。その前は・・・。
初めて見ず知らずの人に対して、次の言葉をぶつけることになった。
「おれさ、大学中退したんだ」
哲夫は福岡の大学を、二年で中退していた。
大学中退という言葉が、口の中に余韻を残していた。そう言い放っておいて、どういう反応があるのか、富山の表情の変化を少しでも見落とさぬように、しっかりと彼の顔を見据えていた。一体中退という言葉が、他人にどのような印象を与えるのか。どんな目でもって彼らから見つめられるのか。たしかに中退など、世間にはうじ虫のごとくいるかも知れない。取るに足らないことであるかも知れない。中退者に与えられる称号は、落伍者としてのそれか、はたまた何か才能を開花させた時に、自嘲的に呟く「中退者」という誇りか。
しかし哲夫は自らの体内に押さえのきかぬような、溢れ出さんばかりの才能と衝動をもって大学を飛び出したわけではなかった。大学は辞めたけれど、いつまでもフリーターと称して何をやるでもなく、ただ社会の枠組みの周辺を這いずり回っているうじ虫の部類だと思った。
音楽や演劇や小説を書いて成功する「中退者」になれるはずはなく、初夏になれば自然に湧いて出てくるうじ虫だと思った。それでも彼は、高卒でもないもちろん高校中退でもない、大学中退という非常にあいまいなぬかるみの上に、自らの生活を築き、またそこにアイデンティティーを見出すつもりだった。大学に行けるようなフツーの環境に育ちながら、あえてそこから逃げ出したのだ。高卒でまっとうに働いている田舎の同級生からすれば、それは鼻をつまんで毛嫌いされるような、うじ虫のアイデンティティーだった。
富山は浅黒くてほりの深い顔をしていた。彼はその濃淡のある顔を柔らかく崩して、微笑みを浮かべた。
「何かおかしいか?」
「いやね・・・」
「何だよ」
「・・・俺と一緒だなって」
ぴんと張られていた哲夫の視線が、するりとほどけていった。
富山は一年前に、東京のある私立大学を退学していた。
「それで辞めてからどうした?」
反対に哲夫が訊いた。
そこらあたりを這いずり回っているはずのうじ虫が、彼の周りでは彼だけだった。中退を実行した富山が、その後どういう生活を送ったのか、どのような経緯でここへやってきたのか。哲夫は自分のことのように関心をもって訊いた。しかし、富山がうじ虫であるかどうかの詮索は、次の言葉によって全く無意味なものとなった。
「オーストラリアに行っていたんだ」
富山はそういって哲夫の目の奥を覗き込んだ。哲夫はその時、彼の目の奥になにか照り輝くものを見つけた。
「へえ。オーストラリアか。凄いな」
哲夫は彼から目をそらして、平然としたそぶりでそういった。彼に探られまいと思った。彼と同じか、あるいは違ったものであるにしろ、自分の目の奥に照り輝く何かがあるのかどうか不安だった。中退の後、新たな出発点としてオーストラリアを選んだ富山と、海外へ出ることなど全く考えつかなかった自分とでは、自分の方が明らかにその発想において幼稚であり、劣っているように思えた。
オーストラリアには大陸的な乾いた、そして未知なるものへと挑戦していくような男らしい響きがあった。反面、上高地には華奢で甘美な、どこか逃避的な響きがあるように思えた。
富山は一ヶ月前に、日本へ帰ってきていた。
「ここのバイトが終わったらどうするの?」
と哲夫が訊いた。
「オーストラリアからの帰りに、東南アジアも旅してきたんだけど、シンガポールの大学へ留学しようと思っているんだ」
彼は留学するための学費や生活費を、そのバイトで貯めるつもりだった。すでに留学の手続きも進めていた。
また、大学での授業のほとんどが英語で行われるため、英語の勉強も続けていた。ただ、オーストラリアに行っていたおかげで、日常会話程度の英語は十分話すことができた。そしてオーストラリア訛りの英語を話してみせるのだった。
哲夫は焦りを覚えた。富山が同級生だったことが、さらに彼の焦りを大きくした。哲夫は具体的な目標など何ひとつ持たずに、ただ漠然と九州から離れることだけを考えていた。流されるというより、積極的に流れてやろうと辿りついたものの、目的地のない逃避行に、すでに不安を抱いていた。それでも九州にとどまって再出発を考えるよりも、誰も知らない、自分さえ知らない土地でできるだけの身ぐるみを引き剥がし、すっかり軽くなった体ひとつでやり直すことに賭けようと思った。
まだ間に合う、まだ間に合うんだと自分自身にいい聞かせて。
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2007年08月29日
松本(2)
「みんなはどうするの?」
と富山が訊いた。
愛知は哲夫より二つ年下で、三月に高校を卒業したばかりだった。彼はホテルマン志望だった。ホテルの専門学校へ通う費用を、上高地のバイトで貯めるつもりだった。その上、ホテルマンとしての基礎も少しは学べるだろうと思った。
「みんな関心やなー。エライエライ」
と大阪の橋本が二度三度手を叩いた。
「テツ。焦ることないんやで。なんや見とったらだんだん深刻な顔になってるさかいになー。ジブンかてまだはたちやろ。まだガッキや。これから何でもできるやないけ。そんな深刻に考えんと、遊べ遊べ。上高地に行ったら女の子もようけおるやろうからな。フフフッ……。さっき見た四人の女の子の中にも、ええ乳した娘おったしなー……。三人ともまだガッキや、それでそうしっかりしてたら、ワシの立場はどないするんや」陽気な口調だった。
「山登りするんですか?」と哲夫が訊いた。
「少しやけどな。二年ほど山小屋で凍ってたわ。レンジでチンしたら元どおりや」
と笑って応えた。
「それまで仕事は何してたんですか?」
「フフフッ……。仕事かー。そりゃあ転々としたでえ。ワシこうみえてもジブンらの年にはテレビにも出てたんだけどな」
「犯罪者とか?」
そんなジョークに、
「そうそう犯罪者やねんワシ……って、そんなわけないやろ」
とうまくノッてボケてみせた。哲夫も富山も愛知も、みんな笑っていた。
「本当に出てたんですか?」
「ああ、ほんまや」
「お笑い……ですか?」
「……なんでわかんの?」
「やっぱり」
「……フフフッ。やっぱりそう見えるかー。これでも結構二枚目とちがうやろかって思てたんけどな。おかしなー」
橋本は高校生の頃から、大阪ローカルの素人が参加するテレビ番組に出演していた。高校卒業後もお笑い番組を中心に、セミプロとして活躍した。素人参加番組の一回目などに、局側から出演依頼の電話が入り、もちろんそんなときはギャラもきちんともらっていた。
歌手やタレントのものまねが得意だった。現在多くのものまねタレントが活躍していて、定番ものとして知られる芸がいくつもあるが、その中には、橋本が最初に行ってみんなが真似したものもあった。
東京で活躍する大阪出身の漫才師に、プロとして十分に通用するからと、本格的にプロダクション入りを薦められたこともあった。
「どうしてやめたんですか?売れなくなったんですか?」
橋本はニガ笑いを浮かべながら、
「そやなー。いろんなことがあって……ほんま、どないしたんやろ」
一体彼に何があったのか、哲夫は知りたいと思ったが、彼の様子を見ると、過去のことについてはそれ以上訊くことができなかった。
橋本はその当時、局側からの出演依頼も次第に増え、プロとしての活躍を期待されていた陰で、プレッシャーと闘っていた。彼の芸はもともと一発芸みたいなものまねやギャグがほとんどで、勢いにまかせて笑いをとることを得意としていた。その勢いがはげしければ激しいほど、客を笑わすことができたし、客もそれを期待した。その期待に応えようとすればするほど、彼は自分の才能の限界を強く感じるのだった。もともと彼は、普段から面白い人間ではなかった。そのうちに、楽屋で酒をひっかけて番組にでるようになっていた。
酒の勢いを借りて芸をする彼の体を、何かが蝕んでいった。何かのプロになろうと思う人間が自分自身で感じる限界の、漠涼した思いだった。それと大量のアルコール。彼は自分の方から、一つずつ出演依頼を断っていった。しまいには、目の前に置いていた電話が一切鳴らなくなっていた。
「バイトが終わったらどうするんですか?……山小屋ですか?」
「……夢か。フフフッ。ワシの夢は笑えるでえ」
「えっ?何ですか」
「ケイバやケイバ!」
三人ともきょとんとした顔をしていた。
「なっ、笑えるやろ。ジブンらが留学やら専門学校やらゆうてんのに、ワシはケイバや。バシッと百万以上貯めて、全国ケイバ場巡りしたる。その旅のフィナーレを飾るのが、中山の有馬記念っちゅう寸法や。どや?」
と早口で一気にまくし立てた。
「なんやねんジブンら。ケイバ知らんの?」
富山と愛知の二人はケイバをあまり知らなかったので、何も言えなかった。哲夫だけが思わず「凄いですね」と言った。
橋本はまたフフフッと笑って、
「凄いですね、か。テツは何でも凄いですねってゆうねんなー」と言った。
それからケイバにまつわる失敗談などを、橋本が面白く話した。哲夫も彼と一緒になって、競馬や麻雀にはまっていた学生生活を話した。話は女の好みなどにも発展し、寝たのは午前三時をまわっていた。
翌朝、バイト先のホテル会社の車に乗り、彼らは上高地についた。富山と愛知はホテルに配属された。富山は売店、愛知はフロントだった。てっきり橋本もホテルの方だと、哲夫は思っていたが、
「ワシロッジやて」
と残念そうに言う彼に、哲夫は何といえばいいのか分からなかった。
と富山が訊いた。
愛知は哲夫より二つ年下で、三月に高校を卒業したばかりだった。彼はホテルマン志望だった。ホテルの専門学校へ通う費用を、上高地のバイトで貯めるつもりだった。その上、ホテルマンとしての基礎も少しは学べるだろうと思った。
「みんな関心やなー。エライエライ」
と大阪の橋本が二度三度手を叩いた。
「テツ。焦ることないんやで。なんや見とったらだんだん深刻な顔になってるさかいになー。ジブンかてまだはたちやろ。まだガッキや。これから何でもできるやないけ。そんな深刻に考えんと、遊べ遊べ。上高地に行ったら女の子もようけおるやろうからな。フフフッ……。さっき見た四人の女の子の中にも、ええ乳した娘おったしなー……。三人ともまだガッキや、それでそうしっかりしてたら、ワシの立場はどないするんや」陽気な口調だった。
「山登りするんですか?」と哲夫が訊いた。
「少しやけどな。二年ほど山小屋で凍ってたわ。レンジでチンしたら元どおりや」
と笑って応えた。
「それまで仕事は何してたんですか?」
「フフフッ……。仕事かー。そりゃあ転々としたでえ。ワシこうみえてもジブンらの年にはテレビにも出てたんだけどな」
「犯罪者とか?」
そんなジョークに、
「そうそう犯罪者やねんワシ……って、そんなわけないやろ」
とうまくノッてボケてみせた。哲夫も富山も愛知も、みんな笑っていた。
「本当に出てたんですか?」
「ああ、ほんまや」
「お笑い……ですか?」
「……なんでわかんの?」
「やっぱり」
「……フフフッ。やっぱりそう見えるかー。これでも結構二枚目とちがうやろかって思てたんけどな。おかしなー」
橋本は高校生の頃から、大阪ローカルの素人が参加するテレビ番組に出演していた。高校卒業後もお笑い番組を中心に、セミプロとして活躍した。素人参加番組の一回目などに、局側から出演依頼の電話が入り、もちろんそんなときはギャラもきちんともらっていた。
歌手やタレントのものまねが得意だった。現在多くのものまねタレントが活躍していて、定番ものとして知られる芸がいくつもあるが、その中には、橋本が最初に行ってみんなが真似したものもあった。
東京で活躍する大阪出身の漫才師に、プロとして十分に通用するからと、本格的にプロダクション入りを薦められたこともあった。
「どうしてやめたんですか?売れなくなったんですか?」
橋本はニガ笑いを浮かべながら、
「そやなー。いろんなことがあって……ほんま、どないしたんやろ」
一体彼に何があったのか、哲夫は知りたいと思ったが、彼の様子を見ると、過去のことについてはそれ以上訊くことができなかった。
橋本はその当時、局側からの出演依頼も次第に増え、プロとしての活躍を期待されていた陰で、プレッシャーと闘っていた。彼の芸はもともと一発芸みたいなものまねやギャグがほとんどで、勢いにまかせて笑いをとることを得意としていた。その勢いがはげしければ激しいほど、客を笑わすことができたし、客もそれを期待した。その期待に応えようとすればするほど、彼は自分の才能の限界を強く感じるのだった。もともと彼は、普段から面白い人間ではなかった。そのうちに、楽屋で酒をひっかけて番組にでるようになっていた。
酒の勢いを借りて芸をする彼の体を、何かが蝕んでいった。何かのプロになろうと思う人間が自分自身で感じる限界の、漠涼した思いだった。それと大量のアルコール。彼は自分の方から、一つずつ出演依頼を断っていった。しまいには、目の前に置いていた電話が一切鳴らなくなっていた。
「バイトが終わったらどうするんですか?……山小屋ですか?」
「……夢か。フフフッ。ワシの夢は笑えるでえ」
「えっ?何ですか」
「ケイバやケイバ!」
三人ともきょとんとした顔をしていた。
「なっ、笑えるやろ。ジブンらが留学やら専門学校やらゆうてんのに、ワシはケイバや。バシッと百万以上貯めて、全国ケイバ場巡りしたる。その旅のフィナーレを飾るのが、中山の有馬記念っちゅう寸法や。どや?」
と早口で一気にまくし立てた。
「なんやねんジブンら。ケイバ知らんの?」
富山と愛知の二人はケイバをあまり知らなかったので、何も言えなかった。哲夫だけが思わず「凄いですね」と言った。
橋本はまたフフフッと笑って、
「凄いですね、か。テツは何でも凄いですねってゆうねんなー」と言った。
それからケイバにまつわる失敗談などを、橋本が面白く話した。哲夫も彼と一緒になって、競馬や麻雀にはまっていた学生生活を話した。話は女の好みなどにも発展し、寝たのは午前三時をまわっていた。
翌朝、バイト先のホテル会社の車に乗り、彼らは上高地についた。富山と愛知はホテルに配属された。富山は売店、愛知はフロントだった。てっきり橋本もホテルの方だと、哲夫は思っていたが、
「ワシロッジやて」
と残念そうに言う彼に、哲夫は何といえばいいのか分からなかった。
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2007年08月28日
就業一日目朝
浅い眠りは寒さのせいだけではなかった。深夜バスの中でも、カーテン越しに迫っては通り過ぎていく、高速道路の照明をいつまでも見ていた。そのだいだい色の光の粒は、夜の海を泳いで逃亡しようとする彼の体に、油のようにまとわりつく夜光虫のようだった。また、さまよい続ける彼の精神を、くっきりと浮かび上がらせる曳航弾のようでもあった。彼は博多を出てからこれまで、何度となくこうなってしまったいきさつと、これからどうなってしまうのかを繰り返し考えていた。
「なんや、もう起きてたん?」
前日、松本から哲夫と一緒に上高地へ登ってきた大阪の男が起きた。起床の時間までには、まだ三十分くらいあった。
「ほんま寒いなあ。なんやらよう眠られへんやったみたいやなー」
その橋本という男が自分の目の縁を指でさして、「なんかついとるでえ」と彼に向かっていった。
哲夫は慌てて、その涙のあとを爪でひっかいた。すぐにうすら笑みを浮かべてごまかしたが、その仕草がなおさら恥ずかしいものに思えるのだった。
「まあ、いろいろあるわいや」
橋本は静かにそういった。そういう彼も、ウイスキーが結構入っていたにもかかわらず、ベッドの上で床についてから、ずいぶん長いこと起きていた。耳にイヤホンを差し込み、小型カセットデッキから流れる曲に合わせて、二時間近くも静かに歌を口ずさんでいた。
部屋の中央を少しだけあけ、コの字に取り囲むようにして二段ベッドが三つ備えられていた。最大収容人数六人といったところだった。しかし、そのタコ部屋の住人は哲夫と橋本の二人だけだった。二人はそれぞれ下のベッドの縁に腰かけて、しばらく黙っていた。橋本は煙草を喫っていた。煙を吐く時にする息づかいが、なぜだかひどく寂しさを感じさせるのだった。非常に印象に残る煙の吐き方だったので、哲夫はその仕草に目をとられていた。そして、いつのまにか橋本の吐く煙と呼吸に合わせて、彼も一緒になって吐息を洩らしていた。
「なんや知らん。だまされたみたいやな。結局このロッジで働くバイトは、ワシら二人だけみたいやで」
「そうですね」
「そうですねって、えらい簡単にゆうなー。大体ワシはホテルの喫茶って聞いてたんや。それやのになんでこんなボロっちい木造のロッジで働かなならんの。しかもこんなタコ部屋にまで入れられて。ほんま本とかで読んどったタコ部屋そのものやんけ。ビックリするでー」
たしかに哲夫もそのタコ部屋には驚いた。しかし、彼は自分の方からホテルではなく、ロッジで働くことを希望していた。三月のはじめ、独り暮らししていたアパートを引き払い、彼は友人のアパートへ転がり込んでいた。そこへホテル会社から採用の電話があった。その時支配人がいった、「ロッジの方が従業員が少なくて家族的」という言葉を聞いて、彼は少なからぬ期待を抱いた。人間のつながりが持つ不思議なもの。そんな力を彼は信じていた。自分の周りに、自分を魅きつける核のような存在の人が現われて、その人との出会いがきっかけで次々と連鎖反応で核融合が引き起こされる。その核反応により生じる巨大なエネルギーをいつのまにか自分のものとして、新たな境遇を切り開いていく。
哲夫はそんなことを夢想しながら、上高地で働くようになるまでの二ヶ月間を過ごしてきた。ロッジで働く方が、アルバイトも含めて七十人近く従業員のいるホテルよりも、より密接な仲間意識が存在するだろうし、より高いエネルギーが存在するような気がした。
「まあ、でもしゃあないわ。こうしてワシら二人がロッジで働くようになったんも何かの縁や。お互い最後まで脱落せんように、楽しくやろうやないか」
と橋本は納得したようにいった。
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2007年08月28日
就業一日目
梓川という川に、吊り橋が架かっていた。長さ三十メートル程で幅の広いその橋が、芥川龍之介の「河童」に出てくることでも知られる、有名な河童橋だった。河童橋に立ち、川の上流を仰ぐと、三千メートル級の穂高連峰の雄志が目一杯に飛び込んでくる。その橋の畔に、川を挟んで向かい合うようにして立っているのが、哲夫たちが働くことになったホテルとロッジだった。
就業一日目。哲夫と橋本は河童橋を渡り、ホテルの横に併設された従業員宿舎に行った。その中にある従業員食堂で朝食を済ませて、八時半にロッジの一階中央にあるホールへ戻ってきた。スタッフ全員がそこで顔を揃えるようになっていたからだ。ホールには一度に百五十人が食事をとれるように、長テーブルと椅子がぎっしりと並べられていた。
スタッフ全員といっても、その朝集まったのはたったの六人だった。すっかり頭の禿げあがった初老の支配人と、五十歳を過ぎた厨房担当の男。あごヒゲを生やしたチーフと彼の奥さん。そして哲夫と橋本の二人だった。
宿泊客に出す番茶をすすりながら、ロッジの簡単な業務内容をチーフが説明した。アルバイトは哲夫と橋本の二人だけだった四人は毎年四月になると上高地へ登ってくる正社員だったので、勝手を知らないのは彼ら二人だけだった。
「今年は調整がうまくいかんやったらしく、長期のレギュラーはこれだけやと。支配人にはどっしり構えとってもらわんといかんから、実質五人ということやな。バイトの二人もロッジになってたいへんやろうけど、もう来てしもうた以上は覚悟ばしてもらうしかなか。頼むばい」
チーフは九州弁のまじる言葉でそう語った。
「いいかみんなよく聞くだ。この木造のロッジも今年が最後だべ。ロッジ最後の従業員として最後まで頑張るだよ」と支配人が続けた。
十一月の閉館の後、その建物は壊されることになっていた。そして、再来年の四月には、鉄筋コンクリート建ての新しいロッジとしてオープンするのだった。
「テツと橋本にはとりあえずやってもらう仕事があるんやけど……大体さっしのついとうかな……分かるや?」とチーフが言った。
「いや?……全然分かりませんが」と哲夫が応えた。
「橋本はわかるやろ?山男やったなら」
「はあ……雪かきでっか?」
哲夫と橋本は用意された長靴とシャベルを手に持ち、東館の二階へ行った。
本館と東館とをつなぐ一階の通路は、常時通り抜けができるようになっていたが、二階の通路は普段シャッターで閉じられていた。本館が満室になってから東館の客室を使っていたので、二階のシャッターはその時だけ開けるようにしていた。
わずかに死に絶えた光のしみだけが沈着した東館の二階は、非常に薄気味悪く、冬の間中どこにも逃れることのできなかった冷気が、くるぶしのあたりまで積もっていた。一歩一歩廊下を歩くたびに、古い納戸をあける時のような音を立てるのだった。
「幽霊とか信じるや?」
とチーフがわざと低い声を出して言った。
哲夫と橋本が顔を見合わせた。
「ほんとに出まんの?」
「穂高とか槍で遭難する奴もおるしな。自殺するもんもおる。それに山は霊が集まってくるって言うやろ」
「ロッジに出るんですか?」哲夫が訊いた。
「俺は見たことなかけど、東館の二階、つまりここで見たって話や」
「で、ワシらはこの格好で幽霊退治でっか?」
と、橋本が真面目な顔をして、両手に持っていたシャベルと長靴を上にあげた。その格好がとてもおかしかったので、チーフと哲夫は二人して大笑いした。
廊下の両側に客室が並んでいた。一番突き当たりの倉庫以外は全て鍵があいていた。倉庫の一つ手前、北並びの一番奥の部屋に、二人はチーフとともに入っていった。ちょうどタコ部屋の上あたりになる。
客室は二段ベッドが二組ずつ両脇に設置されたユースホステルスタイルだった。その奥に一つだけ窓があった。
「どこに雪があるんですか?」
と哲夫がチーフに訊いた。
「いいから、その窓を開けて下を見らんか」
そう言って、チーフが奥の窓を指差した。
哲夫はカーテンを開け、ガラス窓を開け、冬の間中ずっと閉じられていた黒い板の雨戸を開けて下を見た。
「わあー」
たっぷりと積もった雪がすぐそこまで、一階の天井にあたる所くらいまであった。自然に降り積もった雪と、屋根から落ちた雪がほとんど溶けることなく、そのまま手つかずにされていた。東館の建物に寄りかかるようにして積もっていた。
哲夫と橋本はチーフに言われるまま、長靴を履き、窓から身をのりだして、まず一階の庇の部分に降りた。そしてそこから少しだけジャンプして、うず高く積もる雪の上に降り立った。
「どうや?雪のプールは」
「ほんま、ええ湯加減ですわー」
と橋本がチーフにきり返した。
「おっ、さすが大阪人。うまいこと言うな」
「チーフは入りまへんの?」
「俺は他にもやることが山ほどあるったい。雪かきはお前らに任せたぞ。そこは従業員が洗濯物を干す裏庭やから、なるべく急いでかいてくれよ。まあ、それでも明日一杯はかかるやろうな。体痛めんようにやってくれや」
そう言い残して、チーフは姿を消した。
哲夫と橋本はお互い顔を見合わせて、奇妙な笑みを浮かべた。
「とりあえず一服や」
と橋本は自分のシャベルで不安定な雪面をならして、そこにシャベルを突き立てた。完全に動かないようにしてから、柄の部分にうまく腰をおろした。哲夫もそれを真似て、同じように腰をおろした。
橋本がゆっくりと煙草をふかした。その息づかいがなぜだかひどく寂しさを感じさせるのは、朝を変わらなかった。
「寂しそうに煙草喫うんですね」
「ああ、ほんまあ。そう見えるかー」
「ええ、そう見えます」
「結局ワシらは季節労働者や」
と橋本が吐息をもらすようにして呟いた。
「たった四人の正社員に、アルバイトはワシら二人だけやて。実質五人どころか、ワシに言わせれば実質三人や。ワシとテツとチーフの三人や。あとは厨房以外は仕事せえへんおっさんと、チーフの奥さんやろ。チーフの奥さんはフロントやさかい仕方ないさかい、業務全般をこなせるのは結局三人だけや。満室の時で二百人からを、たった正社員も含めてたった六人できりもりするんやさかい、そらしんどいでえ。まあ、コキつかわれるのが季節労働の宿命みたいなもんやさかいなー。ようするにワシらは何でもせなならん雑夫や」
「雑夫……ですか」
哲夫が呟いた。
就業一日目。哲夫と橋本は河童橋を渡り、ホテルの横に併設された従業員宿舎に行った。その中にある従業員食堂で朝食を済ませて、八時半にロッジの一階中央にあるホールへ戻ってきた。スタッフ全員がそこで顔を揃えるようになっていたからだ。ホールには一度に百五十人が食事をとれるように、長テーブルと椅子がぎっしりと並べられていた。
スタッフ全員といっても、その朝集まったのはたったの六人だった。すっかり頭の禿げあがった初老の支配人と、五十歳を過ぎた厨房担当の男。あごヒゲを生やしたチーフと彼の奥さん。そして哲夫と橋本の二人だった。
宿泊客に出す番茶をすすりながら、ロッジの簡単な業務内容をチーフが説明した。アルバイトは哲夫と橋本の二人だけだった四人は毎年四月になると上高地へ登ってくる正社員だったので、勝手を知らないのは彼ら二人だけだった。
「今年は調整がうまくいかんやったらしく、長期のレギュラーはこれだけやと。支配人にはどっしり構えとってもらわんといかんから、実質五人ということやな。バイトの二人もロッジになってたいへんやろうけど、もう来てしもうた以上は覚悟ばしてもらうしかなか。頼むばい」
チーフは九州弁のまじる言葉でそう語った。
「いいかみんなよく聞くだ。この木造のロッジも今年が最後だべ。ロッジ最後の従業員として最後まで頑張るだよ」と支配人が続けた。
十一月の閉館の後、その建物は壊されることになっていた。そして、再来年の四月には、鉄筋コンクリート建ての新しいロッジとしてオープンするのだった。
「テツと橋本にはとりあえずやってもらう仕事があるんやけど……大体さっしのついとうかな……分かるや?」とチーフが言った。
「いや?……全然分かりませんが」と哲夫が応えた。
「橋本はわかるやろ?山男やったなら」
「はあ……雪かきでっか?」
哲夫と橋本は用意された長靴とシャベルを手に持ち、東館の二階へ行った。
本館と東館とをつなぐ一階の通路は、常時通り抜けができるようになっていたが、二階の通路は普段シャッターで閉じられていた。本館が満室になってから東館の客室を使っていたので、二階のシャッターはその時だけ開けるようにしていた。
わずかに死に絶えた光のしみだけが沈着した東館の二階は、非常に薄気味悪く、冬の間中どこにも逃れることのできなかった冷気が、くるぶしのあたりまで積もっていた。一歩一歩廊下を歩くたびに、古い納戸をあける時のような音を立てるのだった。
「幽霊とか信じるや?」
とチーフがわざと低い声を出して言った。
哲夫と橋本が顔を見合わせた。
「ほんとに出まんの?」
「穂高とか槍で遭難する奴もおるしな。自殺するもんもおる。それに山は霊が集まってくるって言うやろ」
「ロッジに出るんですか?」哲夫が訊いた。
「俺は見たことなかけど、東館の二階、つまりここで見たって話や」
「で、ワシらはこの格好で幽霊退治でっか?」
と、橋本が真面目な顔をして、両手に持っていたシャベルと長靴を上にあげた。その格好がとてもおかしかったので、チーフと哲夫は二人して大笑いした。
廊下の両側に客室が並んでいた。一番突き当たりの倉庫以外は全て鍵があいていた。倉庫の一つ手前、北並びの一番奥の部屋に、二人はチーフとともに入っていった。ちょうどタコ部屋の上あたりになる。
客室は二段ベッドが二組ずつ両脇に設置されたユースホステルスタイルだった。その奥に一つだけ窓があった。
「どこに雪があるんですか?」
と哲夫がチーフに訊いた。
「いいから、その窓を開けて下を見らんか」
そう言って、チーフが奥の窓を指差した。
哲夫はカーテンを開け、ガラス窓を開け、冬の間中ずっと閉じられていた黒い板の雨戸を開けて下を見た。
「わあー」
たっぷりと積もった雪がすぐそこまで、一階の天井にあたる所くらいまであった。自然に降り積もった雪と、屋根から落ちた雪がほとんど溶けることなく、そのまま手つかずにされていた。東館の建物に寄りかかるようにして積もっていた。
哲夫と橋本はチーフに言われるまま、長靴を履き、窓から身をのりだして、まず一階の庇の部分に降りた。そしてそこから少しだけジャンプして、うず高く積もる雪の上に降り立った。
「どうや?雪のプールは」
「ほんま、ええ湯加減ですわー」
と橋本がチーフにきり返した。
「おっ、さすが大阪人。うまいこと言うな」
「チーフは入りまへんの?」
「俺は他にもやることが山ほどあるったい。雪かきはお前らに任せたぞ。そこは従業員が洗濯物を干す裏庭やから、なるべく急いでかいてくれよ。まあ、それでも明日一杯はかかるやろうな。体痛めんようにやってくれや」
そう言い残して、チーフは姿を消した。
哲夫と橋本はお互い顔を見合わせて、奇妙な笑みを浮かべた。
「とりあえず一服や」
と橋本は自分のシャベルで不安定な雪面をならして、そこにシャベルを突き立てた。完全に動かないようにしてから、柄の部分にうまく腰をおろした。哲夫もそれを真似て、同じように腰をおろした。
橋本がゆっくりと煙草をふかした。その息づかいがなぜだかひどく寂しさを感じさせるのは、朝を変わらなかった。
「寂しそうに煙草喫うんですね」
「ああ、ほんまあ。そう見えるかー」
「ええ、そう見えます」
「結局ワシらは季節労働者や」
と橋本が吐息をもらすようにして呟いた。
「たった四人の正社員に、アルバイトはワシら二人だけやて。実質五人どころか、ワシに言わせれば実質三人や。ワシとテツとチーフの三人や。あとは厨房以外は仕事せえへんおっさんと、チーフの奥さんやろ。チーフの奥さんはフロントやさかい仕方ないさかい、業務全般をこなせるのは結局三人だけや。満室の時で二百人からを、たった正社員も含めてたった六人できりもりするんやさかい、そらしんどいでえ。まあ、コキつかわれるのが季節労働の宿命みたいなもんやさかいなー。ようするにワシらは何でもせなならん雑夫や」
「雑夫……ですか」
哲夫が呟いた。
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2007年08月28日
雪
九州ではすでに初夏を思わせる陽気が続く頃、上高地の春はとても短いものだった。標高千五百メートルのその地は、冬から夏へと一気に季節が駆け上がった。明らかにまだ冬の気温であるその時期でも、空気が清くて透明なせいか、太陽の光は強烈に雪面を照りつけた。頑固にまだ残っている雪の塊を、全て溶かしつくそうと懸命になって照りつけているようだった。
哲夫と橋本の二人は雪と格闘していた。
二人のいる場所は、残念ながら東館の建物が影になっていたので、せっかくの太陽の光も、そこでは弱くて柔らかいものでしかなかった。
哲夫は季節労働者としての新しいスタートを雪かきで迎えたことに、さして嫌な気持ちは抱かなかった。コキ使われるという言い方をすれば、何か不本意ながら他人に使われているようで、それは消極的な季節労働者としての態度だと思った。彼は自分自身の能力と責任において、自らの肉体をこの上なくコキ使ってやろうと思った。流されるのではなく、流れるのだ。そうして、せっせせっせと雪をかいている最中でも、頭の隅の方では常に不安が渦巻いてはいた。しかし、もう引き返すことなどできるはずはなく、彼はロッジで何かを見つけなければならなかった。きっと何かが見つかるだろうと、彼自身信じて働くしかなかった。
具体的な目標など、何ひとつもたなかった。そんなもの無くてもいいと思った。目標は目の前にある目標だけでいいと思った。二日間でそのうず高く積もった雪を、橋本と二人でかきつくす。それが彼の当面の目標だった。次の目標は、それから決めればいいと思った。
雪をかくということ―ただそれだけにできる限りの能力を使い果たし、ただそれだけに責任をまっとうするだけだった。
雪をかき始めてから、二人は一切口を利かなかった。哲夫はトレーナーの上に着ていたセーターを脱ぎ去り、橋本はジャンパーを脱いで腰に巻きつけた。二人とも肌着が汗ばんでいた。
昼食をとるために、二人は作業をやめた。九時からノンストップだった。橋本が大きく息を吐いて、シャベルを雪面に突き立てたのが合図だった。濡れた軍手をシャベルの柄にかけて、彼はその横に立ったままでいた。腰に巻いたジャンパーのポケットから煙草を取り出し、火を点けた。何も言わずに、二、三度煙を吐いた。額には汗が光っていた。
哲夫は煙草を喫わなかった。シャベルの柄に腰かけて、橋本の姿を見ていた。
「しんどいなー」 橋本が苦笑いに言った。
「はい」
「でも、何やら気持ちええもんやな。リズムよく体動かすっちゅうことは。ワシかて山小屋でずいぶん雪かいてきたけど、力ちゅうより持久力があるか、ないかや。結構馬鹿にならん作業やで」
「なぜか白い雪見て黙々と雪かきしてると、吸い込まれそうになりますね」
「ほんまや。しかもなんや光ったりするしな。魅惑的や。これが一面銀世界の雪山やったらえらいこっちゃで。むこうに光るもんがみえるゆうて、ヒョコヒョコ歩いて行っとったらもうおしまいや。死んでまうで」
「ほんとですか?」
「ほんまや」
「そんな光みたことあるんですか?」
橋本は二本目の煙草に火を点けて、少し考え込むようにしてから、
「よう見るようになったで」 と言った。
「けどよう行かん。行ったらおしまいや。誰かが引き留めようと声をかけても、その声すら聞こえへんようになる。追っかけていって、ほっぺたを二、三発ビックリするほどはらな止められへん」
と言って、喫いかけの煙草を足元に落とした。それから二人は昼食をとりに、河童橋を渡って行った。
哲夫と橋本の二人は雪と格闘していた。
二人のいる場所は、残念ながら東館の建物が影になっていたので、せっかくの太陽の光も、そこでは弱くて柔らかいものでしかなかった。
哲夫は季節労働者としての新しいスタートを雪かきで迎えたことに、さして嫌な気持ちは抱かなかった。コキ使われるという言い方をすれば、何か不本意ながら他人に使われているようで、それは消極的な季節労働者としての態度だと思った。彼は自分自身の能力と責任において、自らの肉体をこの上なくコキ使ってやろうと思った。流されるのではなく、流れるのだ。そうして、せっせせっせと雪をかいている最中でも、頭の隅の方では常に不安が渦巻いてはいた。しかし、もう引き返すことなどできるはずはなく、彼はロッジで何かを見つけなければならなかった。きっと何かが見つかるだろうと、彼自身信じて働くしかなかった。
具体的な目標など、何ひとつもたなかった。そんなもの無くてもいいと思った。目標は目の前にある目標だけでいいと思った。二日間でそのうず高く積もった雪を、橋本と二人でかきつくす。それが彼の当面の目標だった。次の目標は、それから決めればいいと思った。
雪をかくということ―ただそれだけにできる限りの能力を使い果たし、ただそれだけに責任をまっとうするだけだった。
雪をかき始めてから、二人は一切口を利かなかった。哲夫はトレーナーの上に着ていたセーターを脱ぎ去り、橋本はジャンパーを脱いで腰に巻きつけた。二人とも肌着が汗ばんでいた。
昼食をとるために、二人は作業をやめた。九時からノンストップだった。橋本が大きく息を吐いて、シャベルを雪面に突き立てたのが合図だった。濡れた軍手をシャベルの柄にかけて、彼はその横に立ったままでいた。腰に巻いたジャンパーのポケットから煙草を取り出し、火を点けた。何も言わずに、二、三度煙を吐いた。額には汗が光っていた。
哲夫は煙草を喫わなかった。シャベルの柄に腰かけて、橋本の姿を見ていた。
「しんどいなー」 橋本が苦笑いに言った。
「はい」
「でも、何やら気持ちええもんやな。リズムよく体動かすっちゅうことは。ワシかて山小屋でずいぶん雪かいてきたけど、力ちゅうより持久力があるか、ないかや。結構馬鹿にならん作業やで」
「なぜか白い雪見て黙々と雪かきしてると、吸い込まれそうになりますね」
「ほんまや。しかもなんや光ったりするしな。魅惑的や。これが一面銀世界の雪山やったらえらいこっちゃで。むこうに光るもんがみえるゆうて、ヒョコヒョコ歩いて行っとったらもうおしまいや。死んでまうで」
「ほんとですか?」
「ほんまや」
「そんな光みたことあるんですか?」
橋本は二本目の煙草に火を点けて、少し考え込むようにしてから、
「よう見るようになったで」 と言った。
「けどよう行かん。行ったらおしまいや。誰かが引き留めようと声をかけても、その声すら聞こえへんようになる。追っかけていって、ほっぺたを二、三発ビックリするほどはらな止められへん」
と言って、喫いかけの煙草を足元に落とした。それから二人は昼食をとりに、河童橋を渡って行った。
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2007年08月28日
パーティー
その日の夜は、ホテルのレストランを使って、全従業員を集めてのパーティーが開かれた。七十名以上からの従業員が一同に会したのだから、それは華やかで、騒然としたパーティーだった。
テーブルにはレストランで働くコックの作った料理が、数え切れないほど並べられ、酒類も日本酒からビール、ウイスキーと置き場所に困るほど用意されていた。
橋本は、ビールは腹が膨れるからと言うわりには、立て続けに五杯ほどコップであおり、その後すぐに日本酒へ手を出した。それからしばらくして、どこから持ち出したのか一升瓶を片手に握りしめ、会場内を端からくまなく歩き回った。
会場は女性が半数くらい占めていた。ホテルの業務がフロント、ルーム、喫茶のウエイトレスと、女手を必要とするのが多いからだ。二十歳そこそこの娘が多く、そのほとんどが哲夫や橋本と同じく、ワンシーズン限りのアルバイトだった。
橋本はそんな彼女たちの間を渡り歩いた。得意のものまねとジョークまじりの巧みな話術で、その場の笑いが膨らみすぎて破裂してしまうほど、場内を盛り上げていた。
哲夫は自分の席から立ち上がることもなく、ウイスキーの水割りを口にした。女の子たちとそう話したいとも思わなかったし、橋本の行動を目で追っているだけで十分楽しかった。橋本のあのエネルギーは、一体どこから湧き出ているのだろうと思った。巨大な油脈から溢れ出るエネルギー―橋本の青春と自分の青春を重ね合わせてみると、自分には何の才能もなかったし、枯れ果ててしまうどころか、これっぽっちの油脈すらありはしなかったのではないかと思った。しかし、哲夫の目には満ちたりた青春を送ったかのように思われた彼も、結局はお笑いタレントとして成功することはなかった。
実際には彼の油脈はすでに尽きてしまっていて、それでもふり搾る残滓だけが、過去の栄光をわずかに灯しているだけだった。
テーブルにはレストランで働くコックの作った料理が、数え切れないほど並べられ、酒類も日本酒からビール、ウイスキーと置き場所に困るほど用意されていた。
橋本は、ビールは腹が膨れるからと言うわりには、立て続けに五杯ほどコップであおり、その後すぐに日本酒へ手を出した。それからしばらくして、どこから持ち出したのか一升瓶を片手に握りしめ、会場内を端からくまなく歩き回った。
会場は女性が半数くらい占めていた。ホテルの業務がフロント、ルーム、喫茶のウエイトレスと、女手を必要とするのが多いからだ。二十歳そこそこの娘が多く、そのほとんどが哲夫や橋本と同じく、ワンシーズン限りのアルバイトだった。
橋本はそんな彼女たちの間を渡り歩いた。得意のものまねとジョークまじりの巧みな話術で、その場の笑いが膨らみすぎて破裂してしまうほど、場内を盛り上げていた。
哲夫は自分の席から立ち上がることもなく、ウイスキーの水割りを口にした。女の子たちとそう話したいとも思わなかったし、橋本の行動を目で追っているだけで十分楽しかった。橋本のあのエネルギーは、一体どこから湧き出ているのだろうと思った。巨大な油脈から溢れ出るエネルギー―橋本の青春と自分の青春を重ね合わせてみると、自分には何の才能もなかったし、枯れ果ててしまうどころか、これっぽっちの油脈すらありはしなかったのではないかと思った。しかし、哲夫の目には満ちたりた青春を送ったかのように思われた彼も、結局はお笑いタレントとして成功することはなかった。
実際には彼の油脈はすでに尽きてしまっていて、それでもふり搾る残滓だけが、過去の栄光をわずかに灯しているだけだった。
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2007年08月28日
宴のあと
就業二日目。哲夫が目を覚ました時、向かいのベッドの下のカーテンが開いていた。昨夜、たしかにそこに寝かせたはずの橋本の姿がなかった。
彼はいつの間にか、二段ベッドの上の方へ布団ごと移動していた。いつ移動したのか、哲夫はまったく気付かなかった。あれだけ泥酔していたにもかかわらず、よく移動できたものだと思った。哲夫は前日の肉体労働でなまっていた体がとっぷり疲れたので、久しぶりに熟睡していた。
哲夫はベッドのカーテンを開け、
「橋本さん。起きてください。時間ですよ」
と言って、彼の体を揺り起こした。
全く動かなかった。床にへばりついた重油のようだった。
「橋本さん、橋本さん」
彼の片方の目が、ようやく開いた。深海で眠っていた巨大魚が、ゆっくりと瞼をあけるようだった。どろんとした目をしていた。二日酔いで頭が痛むのか、ねじれた表情をして起きた。
「大丈夫ですか?」 と哲夫が訊いた。
「ああ……」 という彼の返事が、全く勢いをなくして、哲夫の耳に届くまでに力尽きてぽとりと落ちた。
昨夜、橋本はホテルのパーティー会場から、結局一人でロッジまで帰ってくることができなかった。パーティーの盛り上がりをよそに、早々にタコ部屋へと戻っていた哲夫は、十一時をすぎた頃、ホテルの従業員から呼び出された。橋本を連れ帰ってくれと。哲夫がホテルのレストランに駆けつけた時、彼は会場の隅にへたり込んでいた。数人の従業員が後片付けを終えようとしていて、がらんとした会場が、人がいなくなったせいか広く感じられた。最後まで彼の横についていた従業員は、なじるような目で橋本の姿を見つめていた。哲夫に向かっても、犯罪かなにかの共犯者でも見るような目つきで、「困るよなあ」とか言った。よく見ると彼は嘔吐していて、すっぱい臭いが鼻をついた。哲夫は平謝りに、それから困った時にでる奇妙な笑みを浮かべて、彼に肩をかすようにしてホテルから外へ出た。
遠く岳沢ヒュッテの灯りが、残雪のぼんやりとした白の中にはっきりと見えた。
橋本は河童橋の欄干にもたれて、三度ほど川に向かって嘔吐した。数秒おきに胃がぴくりとふるえて、たまらなくニガい顔をするのだった。哲夫は彼の背中を何度かさすり、それから自販機の所まで走っていった。
うずくまっていた橋本に、哲夫が買ってきたスポーツ飲料を手渡したとき、彼は首をうなだれたまま、「ああ、ああ」と礼なのか呻き声なのか、どっちともつかない声をあげた。
「大丈夫ですか?」
「ほんますまんわ」
聞きとりにくい声だった。哲夫と橋本の二人を取り巻く闇は、彼らから離れるにしたがってとてつもなく深くなっていた。その闇にくるまれてか、橋本の姿がなぜだか急に小さくなったように哲夫には思えた。さっきまで大はしゃぎで会場の中心にいた彼の姿がとても寂しそうだった。親子揃って遊園地に出かけた日曜日、家路についたときに見る父親の後ろ姿の、何ともいえない寂しさのようだった。
「どうかしたんですか? いくらなんでも飲みすぎですよ」
「ほんま、すまんわ」
彼は何度もそう呟いた。哲夫に向かって言っているのか、それとも誰かに向かって言っているのか、よく分からない呟きだった。
とにかく哲夫は橋本を抱きかかえて、河童橋を渡り、タコ部屋へと連れて帰った。途中、従業員通用門にぶら下がる電球の下で、橋本の目がにじんでいるのに気付いた。彼をベッドに寝かして、「橋本さん」と声をかけてみたが、彼の返事はなかった。
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2007年08月28日
就業二日目
「仕事できますか?」と哲夫は橋本の体を気づかって言った。まだ酩酊の淵をさまよっているのか、単に寝ぼけているだけなのか、彼の様子が哲夫には掴みにくいものに思えた。
橋本は朝食をとらずに、哲夫だけが一人で従業員食堂へと向かった。
「昨日は遅かったんか?」とチーフが言った。ロッジのロビーに従業員が集まっていた。
「十二時くらいだったと思いますけど」
「そうれからすぐに二人とも寝たんか?」
「はい」と哲夫が言った。橋本は何も応えなかった。
「橋本はえらい眠そうな目しとるな」
「……大丈夫です」くぐもった声だった。
チーフがその日の作業分担を説明した。哲夫と橋本は前日と同じく雪かきだった。翌日からロッジは営業を開始することになっていた。
「夜中二階で足音がしたんだけど、あれどっちかだったのか?」
チーフが一通りの説明を終えたあとに、厨房のおっさんがそんなことを言い出した。厨房のおっさんはタコ部屋の横の部屋で寝ていた。
「えっ? おれじゃないですけど」
「じゃあ橋本。おまえか?」
「ワシ?……でっか?」
「橋本さんはベロベロに酔っていましたし、ちゃんと寝かせましたから」
「おかしいな。二階を歩く音がしたんだけどなあ。おまえらは聞こえなかった?」
「ええ、雪かきで疲れてたから、熟睡していました」
「幽霊か……いや、まさかな」
とチーフが言った。
「冗談でしょう」と哲夫が応えた。
「いや、でもたしかに足音だったんだけどなあ」
「なんか聞き違いじゃなかとですか? 風で建物がきしむ音とか、夢だったとか」
とチーフに言われて、
「そうかなあ」とおっさんは訝るように腕組みをしていた。
「橋本。なんか元気なかけど大丈夫か?」
とチーフが言った。「飲みすぎて二日酔いか?」
橋本は黙ったまま、どろんとした目を下に向けていた。
「おまえがテツより年上やから、しっかりせないかんぞ」
「……はあ」
チーフはそんな抜け殻のような生返事に、困ったように顔をしかめた。
一日中哲夫と橋本の二人は、前日かき残した雪の塊と格闘した。橋本は起きてはいたけれども自意識の全く存在しない機械のようだった。しかも、その機械は前日の動きと比べまでもなく、たまらなくスローな動きだった。哲夫が何か声をかけても、その声にはピクリとも反応せず、額から汗を滴り落として雪面だけを凝視していた。とても異様な雰囲気だった。哲夫の目にうつる彼の姿は、いまにもガス欠といわんばかりの状態だった。
明らかに、彼の体と精神は異常をきたしていたが、その原因が何であるのか、哲夫には何も分からなかった。
橋本は朝食をとらずに、哲夫だけが一人で従業員食堂へと向かった。
「昨日は遅かったんか?」とチーフが言った。ロッジのロビーに従業員が集まっていた。
「十二時くらいだったと思いますけど」
「そうれからすぐに二人とも寝たんか?」
「はい」と哲夫が言った。橋本は何も応えなかった。
「橋本はえらい眠そうな目しとるな」
「……大丈夫です」くぐもった声だった。
チーフがその日の作業分担を説明した。哲夫と橋本は前日と同じく雪かきだった。翌日からロッジは営業を開始することになっていた。
「夜中二階で足音がしたんだけど、あれどっちかだったのか?」
チーフが一通りの説明を終えたあとに、厨房のおっさんがそんなことを言い出した。厨房のおっさんはタコ部屋の横の部屋で寝ていた。
「えっ? おれじゃないですけど」
「じゃあ橋本。おまえか?」
「ワシ?……でっか?」
「橋本さんはベロベロに酔っていましたし、ちゃんと寝かせましたから」
「おかしいな。二階を歩く音がしたんだけどなあ。おまえらは聞こえなかった?」
「ええ、雪かきで疲れてたから、熟睡していました」
「幽霊か……いや、まさかな」
とチーフが言った。
「冗談でしょう」と哲夫が応えた。
「いや、でもたしかに足音だったんだけどなあ」
「なんか聞き違いじゃなかとですか? 風で建物がきしむ音とか、夢だったとか」
とチーフに言われて、
「そうかなあ」とおっさんは訝るように腕組みをしていた。
「橋本。なんか元気なかけど大丈夫か?」
とチーフが言った。「飲みすぎて二日酔いか?」
橋本は黙ったまま、どろんとした目を下に向けていた。
「おまえがテツより年上やから、しっかりせないかんぞ」
「……はあ」
チーフはそんな抜け殻のような生返事に、困ったように顔をしかめた。
一日中哲夫と橋本の二人は、前日かき残した雪の塊と格闘した。橋本は起きてはいたけれども自意識の全く存在しない機械のようだった。しかも、その機械は前日の動きと比べまでもなく、たまらなくスローな動きだった。哲夫が何か声をかけても、その声にはピクリとも反応せず、額から汗を滴り落として雪面だけを凝視していた。とても異様な雰囲気だった。哲夫の目にうつる彼の姿は、いまにもガス欠といわんばかりの状態だった。
明らかに、彼の体と精神は異常をきたしていたが、その原因が何であるのか、哲夫には何も分からなかった。
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2007年08月28日
迷路
哲夫が自分で作り出した迷路を持っているように、橋本には橋本の迷路があった。それも哲夫のように、厚紙で作り上げた稚拙なしろものではない、ずっと複雑な、簡単には抜け出すことのできない迷路だった。もちろん哲夫の迷路のように、誰でもすぐに上からみることなどできなかった。
哲夫は自分の迷路を上から見ていた。
もし大学を辞めていなかったとしたら……今頃は甲子園のアルプス席を思わせるような階段教室の一番上で、退屈な講義そっちのけで爪を噛むことに夢中になっていただろう。小学校から中学にかけて爪を噛むくせが直らず、異常に変形した爪は、自分の弱さを象徴しているようだった。それからしばらくは完全に治っていた。それが、大学に通い一人暮らしを始めて、自由で勝手気ままな生活の中で、再び爪を噛みはじめていたのだ。
誰かが勝手に出場登録したマラソンレースに仕方なく出場して、ただ沿道から見つめる人の目だけを気にして走っていた。しかし、
――人生はマラソンレースではなかった。
五キロごと十キロごとの平均ペースを忠実に守り、ゴールを痛かしてから左手にはめた腕時計をカチリと止め、平均タイムに納得する。そんな走り方が人生においても大切な走り方だとは思わなかった。なぜなら人生においては、何十年走り続けてもゴールが見えないときもあれば、全力疾走すればあっけなく通過できてしまうゴールだってあるのだ。それにゴールなんてものは人それぞれで、レースの前夜にこっそりとコースへ出かけ、「おれのゴールはここまでにしとこう」と勝手に地面に線をひっぱってもいいはずだ。
誰かがペースメーカーとして先頭を走るモデルレースがあるとすれば、それは、大学をわき目もふらずにきっちり四年で卒業し、何も考えずに企業に就職する。あとは昇進や、子供の成長に顔をゆるませ、家のローンや、子供の教育にうんざりした顔を浮かべる。そういうのが平均ペースだろう。堅実な走り方とはそういうことだろう。己の実力――ベストタイム――により、走るレースを選択し、決して途中棄権などしない。彼らは完走するのだ。たとえそのレースが、見ていてたまらなく退屈な、歩くほどのスローペースだとしても。
レースは途中棄権した。たしかにペースが遅かった。集団の流れの中で、甘ったるい人いきれが鼻をついた。うんざりした。しかし、棄権した最大の理由はペースではなかった。
コースが気に入らなかった。だらだらと緩い下り坂が続く、極めて堕落的なコースだった。まるで何かに牽引されているかのように、自分の力とは別の次元で人生の全てが決定されているような気がした。坂の下で自分以外の誰かが勝手にゴールのテープを握っているような気がした。
立ち止まるのは簡単だった。二年間通った大学を中退するかどうかの選択の難しさは、引き返す距離よりも、ゴールまでの距離の方がずっと短く思えることだった。それでもきびすを返すことにしたのだ。
そうして、哲夫はそこで雪かきに没頭していた。橋本は複雑な迷路に入り込んだまま、とうとう一言も喋ることなく、その日の作業を終えた。二日間でかき尽くすはずだった雪の塊を、予定どおりかき終わることができなかった。哲夫は与えられた初めての仕事を、責任をもってまっとうできなかったことに対して、ひどく悔しい思いがした。
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2007年08月28日
足音
物音がして目が覚めた。
風で建物がきしむ音ではなく、夢でもなかった。哲夫の田舎にある、海に面した丘に建てられた観光用の風車――その羽が風に鳴って回転する音にも似ていたが、それはたしかに人の足音だった。
午前二時半。哲夫の枕元に置いてある目覚まし時計の針が、蛍光塗料のわずかな光を発していた。哲夫は、朝話しの出た不審な足音のことを思い出していた。
幽霊……と哲夫は心の中で呟いた。その後で、「まさかね」とすぐに口に出して言った。
布団を頭から被って、もう一度耳をすましてみた。たしかに音がする。彼は体を起こして、音のする天井を見上げた。ふと感じたのだが、隣のベッドで寝ているはずの橋本の気配がしなかった。
「橋本さん」
小さな声で呼んでみた。
哲夫はベッドのカーテンをそっと開けた。
彼はいなかった。
哲夫はなんとなくいやな予感がしていた。昨夜から橋本の様子が急におかしくなったことと夜中に厨房のおっさんが聞いたという不審な足音。それから、下のベッドで寝たはずの橋本が、朝見ると上のベッドで寝ていたこと。そして――
哲夫自身はっきりと聞こえたその足音。
その寂しげな足音は、橋本が二階を歩いている音に違いないと思った。一体彼が何をしているのか、全く想像がつかなかった。
その日、橋本はどろんとした目のまま雪かきを続け、作業を終える頃には幾分人間の顔色を取り戻した。がしかし、夕食を済ませタコ部屋に戻るなり、彼はまたしても持参したステンレス製のコップでウイスキーを口にしていた。仕事から解放された彼は、指でつまんだスポイドが、指の力をゆるめたとたんにぐんぐん液体を吸い取るように、溜まりに溜まった何かをかき消すように、ウイスキーを口にするのだった。
「そんなんじゃ仕事になりませんよ。今日だって体動いていなかったじゃないですか。それに体にも悪いですよ。大体ゆうべから変ですよ、あんなに飲んで」
「……分からへんのや」
橋本がぼそっと呟いた。
「えっ?何がですか。何が分からないと言うんですか?」
「……」
「おれだって不安ですよ。大学中退して、のこのことこんな山奥まで登ってきて……これからどうなってしまうのか、おれだって不安ですよ」
「みんなな……」
「みんな何なんですか?」
「口きいてくれへんのや……」
哲夫はその時、橋本のその言葉の意味が分からずにいた。
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2007年08月28日
幽霊
哲夫はおそるおそる、二階へ続く階段を上っていった。板張りがぎゅううぎゅううと唸り声をたてた。
東館の二階は夜光灯すらつけられていなかった。非常口と書かれた指示燈が発する緑色の光と、消火燈の赤い光が微妙に混ざりあっているだけだった。
そして、その淡い光は、木の空間が造りだす独特な暗さに吸収されて、深濃で幻想的な暗がりを演出していた。
橋本の姿は廊下にはなかった。哲夫は突き当たりに向かって、ゆっくりと歩き出した。神経が過敏になっているせいか、そこに漂う空気の粒子一粒一粒が、肩に重くのしかかってきた。冷気が足元をサアーッとさらっていった。
「橋本さん」
夜中だったので、大きな声はまずいと、哲夫は少し小さめに彼の名を呼んだ。たっぷり重い空気の粒子一粒一粒が媒介となって、小さな声を四方の壁にぶつけた。その声は思った以上に二階全体に響きわたった。
哲夫は小学生の頃見た、アメリカのテレビ映画のフラッシュを思い出していた。
――初老の男が安楽椅子に深く腰掛けていた。膝の上には読みかけの本があり、彼の鼻にかけた眼鏡は下のほうにずり落ちていた。彼は眼を閉じていた。部屋にはカーテンを閉め忘れた窓から月明かりだけが差し込み、彼の膝から下を銀色に染めていた。古い柱時計の大きな振り子が、静寂の中にひときわ大きな音を刻んでいる。
哲夫は自分で思い出しておいて、生唾が湧いてくるのを止めることができなかった。
――生命を刻む時計だった。その時計が十二の鐘を打ち鳴らした瞬間に、それは始まった。
初老の男の顔の肉がそげ落ち、髪の毛が抜け、目の周りがくぼんだかと思えば、最後にはその眼球さえもただれ落ちる。みるみるうちに骸骨と化していく初老の男は、ただどうしようもなく顔の肉を手で押さえるだけだった。しかし、その手さえも肉がずり落ち、骨だけになっていく。
時計の針が十二時一分になると同時に、信じられないことだが、今度は反対に骸骨と化していた男の顔に、肉が蘇ってくるのだ。しかも彼の顔つきは、最初の顔よりも少しだけ若返っていた。彼は自分の顔をしわの少なくなった手で触り、信じられないような顔をして手鏡をかざした。
――再び化け物と化していた。時計の針が十二時二分になったからだ。――
全く反吐の出そうなテレビ番組だった。その繰り返しがいつまで続いたのか、最後はどうなったのか、そのあたりは思い出せなかった。ただあまりにもショッキングな映像だったので、そのフラッシュをたまに思い出すことがあった。
哲夫は廊下の中ほどから、いよいよ左右の部屋をひとつずつ開けていくことにした。橋本はどこかの部屋に入り込んでいた。
心拍数が上がった。
どの部屋も窓ガラスの外側には雨戸が閉めてあったので、部屋の暗さは刷毛で塗り込んだように暗かった。
結局最後の一部屋を残すことだけとなった。北並びの一番奥の突き当りの部屋。哲夫は探し出している途中から、そこに橋本がいるのを確信した。その部屋から人の気配を感じたし、それを証明する物音が聞こえたからだ。
「橋本さん」
と哲夫はまずドアの外から呼んでみた。何の反応もなかった。ただ物音――何かで床板を突っつくような音――が中から聞こえていた。
哲夫はドアの把手を握り、ゆっくりと回した。その時、哲夫の脳裏に思い出すことのできなかった恐怖のシーンの続きが、鮮明に浮かびあがってきた。
――初老の男を探す女がいた。女は男の娘だった。
「お父さん。どこ? まだ起きているの?」 娘は一階にその男がいないのを確かめると、階段を上がって二階へとやってきた。手前の部屋からひとつずつ、ドアを開けながら男を探した。
「ねえ、お父さんどこなの?」
「来るな!来るんじゃない」
男は溶けていく口を精一杯大きく開きながら、最後の声をふり搾った。
「見るな!おれを……み……る……」
ガチャリ。
哲夫もドアを開けた。
――「お、お父さん? 本当に?……えっ? どうしちゃったの? うそ?、信じられない。若返ったの?」
娘には男の横顔だけが見えていた。娘は男に近づいていって、もう半分の顔を見た。
「きゃあああ」
蘇生する一分の、もう半分の顔では、同時に腐乱の一分がはじまっていたのだ。
哲夫は生唾を飲み込んで、橋本に近づいていった。
何か言葉を口に出していた。よく聞くと、
「いま行くさかいな。いま救けたるさかいにな」
そんな言葉を呟いていた。そして、鍵がかかって開かないガラス窓を必死で開けようとしていた。
「橋本さん!」「うわあああ……」
哲夫は驚いて二、三歩あとずさりした。
体中の血の気が引いて、鳥肌が立った。
塗り込められた闇のなかに、長靴をはき、シャベルを手にした橋本の姿があったからだ。
東館の二階は夜光灯すらつけられていなかった。非常口と書かれた指示燈が発する緑色の光と、消火燈の赤い光が微妙に混ざりあっているだけだった。
そして、その淡い光は、木の空間が造りだす独特な暗さに吸収されて、深濃で幻想的な暗がりを演出していた。
橋本の姿は廊下にはなかった。哲夫は突き当たりに向かって、ゆっくりと歩き出した。神経が過敏になっているせいか、そこに漂う空気の粒子一粒一粒が、肩に重くのしかかってきた。冷気が足元をサアーッとさらっていった。
「橋本さん」
夜中だったので、大きな声はまずいと、哲夫は少し小さめに彼の名を呼んだ。たっぷり重い空気の粒子一粒一粒が媒介となって、小さな声を四方の壁にぶつけた。その声は思った以上に二階全体に響きわたった。
哲夫は小学生の頃見た、アメリカのテレビ映画のフラッシュを思い出していた。
――初老の男が安楽椅子に深く腰掛けていた。膝の上には読みかけの本があり、彼の鼻にかけた眼鏡は下のほうにずり落ちていた。彼は眼を閉じていた。部屋にはカーテンを閉め忘れた窓から月明かりだけが差し込み、彼の膝から下を銀色に染めていた。古い柱時計の大きな振り子が、静寂の中にひときわ大きな音を刻んでいる。
哲夫は自分で思い出しておいて、生唾が湧いてくるのを止めることができなかった。
――生命を刻む時計だった。その時計が十二の鐘を打ち鳴らした瞬間に、それは始まった。
初老の男の顔の肉がそげ落ち、髪の毛が抜け、目の周りがくぼんだかと思えば、最後にはその眼球さえもただれ落ちる。みるみるうちに骸骨と化していく初老の男は、ただどうしようもなく顔の肉を手で押さえるだけだった。しかし、その手さえも肉がずり落ち、骨だけになっていく。
時計の針が十二時一分になると同時に、信じられないことだが、今度は反対に骸骨と化していた男の顔に、肉が蘇ってくるのだ。しかも彼の顔つきは、最初の顔よりも少しだけ若返っていた。彼は自分の顔をしわの少なくなった手で触り、信じられないような顔をして手鏡をかざした。
――再び化け物と化していた。時計の針が十二時二分になったからだ。――
全く反吐の出そうなテレビ番組だった。その繰り返しがいつまで続いたのか、最後はどうなったのか、そのあたりは思い出せなかった。ただあまりにもショッキングな映像だったので、そのフラッシュをたまに思い出すことがあった。
哲夫は廊下の中ほどから、いよいよ左右の部屋をひとつずつ開けていくことにした。橋本はどこかの部屋に入り込んでいた。
心拍数が上がった。
どの部屋も窓ガラスの外側には雨戸が閉めてあったので、部屋の暗さは刷毛で塗り込んだように暗かった。
結局最後の一部屋を残すことだけとなった。北並びの一番奥の突き当りの部屋。哲夫は探し出している途中から、そこに橋本がいるのを確信した。その部屋から人の気配を感じたし、それを証明する物音が聞こえたからだ。
「橋本さん」
と哲夫はまずドアの外から呼んでみた。何の反応もなかった。ただ物音――何かで床板を突っつくような音――が中から聞こえていた。
哲夫はドアの把手を握り、ゆっくりと回した。その時、哲夫の脳裏に思い出すことのできなかった恐怖のシーンの続きが、鮮明に浮かびあがってきた。
――初老の男を探す女がいた。女は男の娘だった。
「お父さん。どこ? まだ起きているの?」 娘は一階にその男がいないのを確かめると、階段を上がって二階へとやってきた。手前の部屋からひとつずつ、ドアを開けながら男を探した。
「ねえ、お父さんどこなの?」
「来るな!来るんじゃない」
男は溶けていく口を精一杯大きく開きながら、最後の声をふり搾った。
「見るな!おれを……み……る……」
ガチャリ。
哲夫もドアを開けた。
――「お、お父さん? 本当に?……えっ? どうしちゃったの? うそ?、信じられない。若返ったの?」
娘には男の横顔だけが見えていた。娘は男に近づいていって、もう半分の顔を見た。
「きゃあああ」
蘇生する一分の、もう半分の顔では、同時に腐乱の一分がはじまっていたのだ。
哲夫は生唾を飲み込んで、橋本に近づいていった。
何か言葉を口に出していた。よく聞くと、
「いま行くさかいな。いま救けたるさかいにな」
そんな言葉を呟いていた。そして、鍵がかかって開かないガラス窓を必死で開けようとしていた。
「橋本さん!」「うわあああ……」
哲夫は驚いて二、三歩あとずさりした。
体中の血の気が引いて、鳥肌が立った。
塗り込められた闇のなかに、長靴をはき、シャベルを手にした橋本の姿があったからだ。
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2007年08月28日
穂高(最終章)
就業三日目。
朝から哲夫は、前日かき残した雪の塊と格闘していた。彼ひとりだった。遠くで山鳥の鳴く声が聞こえ、梓川の流れる音にまじって、人のはしゃぎ声も聞こえた。いよいよ上高地は本格的な春の修学旅行シーズンを迎えるのだ。
哲夫はタコ部屋の裏の雪を、一人で全てかき尽した。心地よい疲れが、裏庭を抜ける風とともに、彼の体をほどよく刺激した。彼は梓川沿いにある小梨平のキャンプ場まで、歩いてみることにした。
橋本のことを考えていた。
朝、ロビーに従業員が集まったとき、すでに橋本の姿はなかった。夜中の幽霊騒動のあと、支配人とチーフの手により、彼は十分ほど歩いたところにある出張診療所へ連れていかれていた。そして、「最後まで脱落せんように」と哲夫に言った彼の方が、わずか四日目で上高地を下りることになった。
彼は精神科への通院歴を隠して、そこへ働きにきていた。どろんとした目と、見るに堪えない夜中の状態は、薬がきれた時に出る症状の一つだった。
「どうしてあんな格好をしていたんでしょうね?」
と昼の休憩時に、哲夫はチーフに訊いた。午前中チーフは出張診療所へ戻り、正気を取り戻した橋本から、精神科へ通うようになったいきさつを少しだけ聞いていた。
「雪山で友人が滑落死したそうや」
「それで長靴とシャベルですか?」
「ああ、救け出そうとしてたんやろ」
「その事故って橋本さんのせいだったんですか?」
「いや、詳しくは分からん。刑事責任を問われるようなことではなかったとやろう。ただ、橋本は自分のせいだと自分を責めてた。あんまり喋りたくないんやろ。本当は忘れたいんやろな」
「そうでしょうね。新たな人生を始めるつもりでここに来たんでしょうから。いろんなことを忘れるために」
それからチーフが橋本から聞いた話を続けた。
橋本が友人と二人で初めて挑戦した雪山登山で、その事故は起きたという。友人が滑落していくのを目のあたりにしたのだ。
原因ははっきりしていた。彼らが実行したその登山が、自殺行為だと言われても仕方のない、狂人的なものだったということ。
二人とも全く雪山の経験がなかった。橋本は夏山を経験してはいたが、冬の雪山ではそのくらいの経験など、何の役にも立ち得なかった。悪天候にみまわれ、吹雪の中、視界がとれなかったこともあるのだが、ザイルやピッケルの有効な使い方を習得していなかったことなど、数えあげればきりがなかった。彼自身が友人を死に導いたと非難されても、仕方のないことだった。
それから二シーズン、橋本は友人の霊をなぐさめるかのように、友人が滑落した近くの山小屋で働いた。
「あいつうわごとみたいに『誰もワシとは口きいてくれへん』とか言うてなかったか?」
「それ昨日ぼくも聞きました何だったんですか?」
いつの頃からか、橋本は雪原の中に光るものを見るようになった。その光が何なのか。手招きをしているようで、何度もその方向へ歩いているときがあった。そんなとき、彼は山小屋で一緒に働く従業員からびんたを張られ、我に返るのだった。
勝手気ままに、高校のころからテレビに出演したり、その後も定職に就くことなく山を歩き回ったり、あげくには精神科へ通院するようになった彼に対して、家族のみんなが、彼とは一切口をきかなくなっていった。
***
梓川は雪解け水で水量が増していた。
川の真ん中ほどに、大木が枝を広げ青い葉を繁らせていた。川の流れは刻々と変化した。大木は干上がれば河原に根をはっているように見え、流れが変化したり増水したりすると再び川の中に根をはっているように見えた。
しかし、大木自体は実際には少しもその位置を変えてはいなかった。それまでどんなに大雨が降って流れが急になろうとも、決して流されることなく毎年新しい若葉を繁らせていた。
雲一つない真っ青な空が、天から哲夫を見下ろしていた。
彼は三千メートル級の穂高の山々に、押しつぶされてしまいそうな圧迫感を体中に感じた。
「誰もワシとは口きいてくれへんのや……」
雪原の光に向かって歩いていく幽霊の姿を、哲夫は思い起こしていた。
(了)
朝から哲夫は、前日かき残した雪の塊と格闘していた。彼ひとりだった。遠くで山鳥の鳴く声が聞こえ、梓川の流れる音にまじって、人のはしゃぎ声も聞こえた。いよいよ上高地は本格的な春の修学旅行シーズンを迎えるのだ。
哲夫はタコ部屋の裏の雪を、一人で全てかき尽した。心地よい疲れが、裏庭を抜ける風とともに、彼の体をほどよく刺激した。彼は梓川沿いにある小梨平のキャンプ場まで、歩いてみることにした。
橋本のことを考えていた。
朝、ロビーに従業員が集まったとき、すでに橋本の姿はなかった。夜中の幽霊騒動のあと、支配人とチーフの手により、彼は十分ほど歩いたところにある出張診療所へ連れていかれていた。そして、「最後まで脱落せんように」と哲夫に言った彼の方が、わずか四日目で上高地を下りることになった。
彼は精神科への通院歴を隠して、そこへ働きにきていた。どろんとした目と、見るに堪えない夜中の状態は、薬がきれた時に出る症状の一つだった。
「どうしてあんな格好をしていたんでしょうね?」
と昼の休憩時に、哲夫はチーフに訊いた。午前中チーフは出張診療所へ戻り、正気を取り戻した橋本から、精神科へ通うようになったいきさつを少しだけ聞いていた。
「雪山で友人が滑落死したそうや」
「それで長靴とシャベルですか?」
「ああ、救け出そうとしてたんやろ」
「その事故って橋本さんのせいだったんですか?」
「いや、詳しくは分からん。刑事責任を問われるようなことではなかったとやろう。ただ、橋本は自分のせいだと自分を責めてた。あんまり喋りたくないんやろ。本当は忘れたいんやろな」
「そうでしょうね。新たな人生を始めるつもりでここに来たんでしょうから。いろんなことを忘れるために」
それからチーフが橋本から聞いた話を続けた。
橋本が友人と二人で初めて挑戦した雪山登山で、その事故は起きたという。友人が滑落していくのを目のあたりにしたのだ。
原因ははっきりしていた。彼らが実行したその登山が、自殺行為だと言われても仕方のない、狂人的なものだったということ。
二人とも全く雪山の経験がなかった。橋本は夏山を経験してはいたが、冬の雪山ではそのくらいの経験など、何の役にも立ち得なかった。悪天候にみまわれ、吹雪の中、視界がとれなかったこともあるのだが、ザイルやピッケルの有効な使い方を習得していなかったことなど、数えあげればきりがなかった。彼自身が友人を死に導いたと非難されても、仕方のないことだった。
それから二シーズン、橋本は友人の霊をなぐさめるかのように、友人が滑落した近くの山小屋で働いた。
「あいつうわごとみたいに『誰もワシとは口きいてくれへん』とか言うてなかったか?」
「それ昨日ぼくも聞きました何だったんですか?」
いつの頃からか、橋本は雪原の中に光るものを見るようになった。その光が何なのか。手招きをしているようで、何度もその方向へ歩いているときがあった。そんなとき、彼は山小屋で一緒に働く従業員からびんたを張られ、我に返るのだった。
勝手気ままに、高校のころからテレビに出演したり、その後も定職に就くことなく山を歩き回ったり、あげくには精神科へ通院するようになった彼に対して、家族のみんなが、彼とは一切口をきかなくなっていった。
***
梓川は雪解け水で水量が増していた。
川の真ん中ほどに、大木が枝を広げ青い葉を繁らせていた。川の流れは刻々と変化した。大木は干上がれば河原に根をはっているように見え、流れが変化したり増水したりすると再び川の中に根をはっているように見えた。
しかし、大木自体は実際には少しもその位置を変えてはいなかった。それまでどんなに大雨が降って流れが急になろうとも、決して流されることなく毎年新しい若葉を繁らせていた。
雲一つない真っ青な空が、天から哲夫を見下ろしていた。
彼は三千メートル級の穂高の山々に、押しつぶされてしまいそうな圧迫感を体中に感じた。
「誰もワシとは口きいてくれへんのや……」
雪原の光に向かって歩いていく幽霊の姿を、哲夫は思い起こしていた。
(了)
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